個性的と言われたら、自分を信じること。

良いことや良い思い出は、嫌なことや悪い思い出にまぎれていってしまう。

どっちをピックアップするか選んでいるのは自分。

 

嫌だと思う気持ちを整理していたら、いい言葉があったことを忘れてて、

「個性的な人というのは自分を信じるしかない、信じていけばいい」と、ああ強い人の優しい言葉だと思った。

 

個性的だと言われるのは全く嬉しくない、お前は自分とは合わないという意味だと感じていたから。もしくは人と合わせることができない馬鹿とか。

それでも自分を信じればいいというのは、安心できる。良い言葉だなぁ。

 

天使

この世の中に出て、偶然に私を助けてくれた人達のことを思い出すと感極まり、嗚咽するまでに泣いてしまうことがあった。今日もそうだった。また、今日も助けられた。静かに風呂で泣いた。

気が付いたことは、私は悲しいから泣いているというより、悲しい時に助けてもらったのが嬉しくて泣いているのだということ。

悲しみの最中には涙は出難く、助けられて初めて涙がわいてくる。悲しみに憑かれた無様なものではなくて、人達への感謝に近いものだったのだと思うと嬉しくもあった。

 

自分を助けてくれた人達を思い出すと、皆同じ色をしていた。その人達が常にその色ではないのかもしれないけど、その瞬間は目の奥が透き通って綺麗で、色というより温度に近い感覚の、温かいお湯が少しずつ湧き出るような感じがする。人が人を助ける瞬間には。

とにかくあり難かった。

 

また助けられ、恩をどうやって返すか、必ず返そうという気持ちでいる。

ちゃんと絵を描いていこう。

 

病気に詰まっているもの、とメモ

思えばほとんど呼吸をやれていなかった。今日はいいか、今日もいいかとさぼっていたが、今回のようにならなければ学ばなかった。

なぜか腰椎の5番の靭帯が損傷していて、座りも立ちもできなくなって初めて色々思うところがあった。

 

何も出来なくなって泣きついたが、呼吸で気を通してもらっても益々痛かった。人生で1番痛かった。(だって筋組織的な何かが分断してるってことでしょ)

気では治らないものもある。

結局炎症は治してもらったが、整体の名手にテーピングをしてもらって、ようやくまずまず動けるようになった。

それまで患部までで止まってしまっていた呼吸の気も、ちゃんと自分の体に聞いて、今日は足の裏まで通るように。

 

痛いところを緩めていったら、悲しみのようなものが詰まっていて、緩めるだけ涙になって出ていった。

走馬灯のように、これだという出来事が思い出されたのが、自分の女性の悲しみだったように思う。

恋人が頼りないので、いよいよ1人で頑張らなくてはと力んでいた節もあり、諦めたような清々しいような悲しみだった。この人のためには受け入れようと思っていたことが、体を壊していた。

誰かに、無理をしないでくださいと言ってもらう度、無理をしないことはできないんじゃないかと思っていた。

 

誰が頼りなくても関係がなくなるように、より強い精神を身につけるつもりでいたが、無理をする、無理になるというのは弱い証拠。

強いというのは、跳ね返したり、打ちのめす「力」のことではなくて、その「力」を無力化することだと感じた。誰かや自分の固まった気を、自分の中へ入れて無力化してしまうこと。だから無理がない。力を入れる必要がないから、体も壊れることがない。

 

 

呼吸を通しているあいだ、これを絵に描くといいという構図が上から降りてきたり。ふと、宗教をやっている人に問いたくなった。信じるということと、言いなりになることの違いは何だと思うか。

私も神様というのを感じる身だが、宗教として神を信仰している人は、じつは、信じられないから言いなりになっているのではないか。

それは自分の外に神がいるという感覚で、自分とはかけ離れた存在のように感じているからジレンマが生まれ、ずっとホームシックのような状態なのでは...と。

 

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病気

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国道沿いの山葡萄

紙のメモはいくらか書いていたけど、あとは体の具合が悪くて集中が出来なかった。

進んで読んでみたいと思う本がいくつかあって、読書の秋らしい時間を過ごす。

時々散歩に行って山葡萄を発見する。青やらピンクやらで、ただの葡萄よりもずっと綺麗だった。

 

ずっと治らなかった腰痛、狙って整形外科と婦人科を受診してみたが、仙腸骨の関節症とのことなので、恐らく内臓なのだろうと思っている。子宮内膜症は腸骨周辺の靱帯などにも発生するらしいので、採血で血を漏らされたときのような鈍い痛みが続くのはこれではないのかなと。ただ、ふくらはぎまで痛みが出ているので、関節症の炎症が起きているのは確かだと思う。

あとは婦人科次第だけど、田舎には良い医者がいない。せめて検査だけでもやってくれたら自分で考えるのに。原因の根まで辿らないのは、体験と純粋な好奇心が抜けてるんだろう。

今はこのご時世なので、おばあさんに治してもらうこともできず。自分で呼吸を通してやってみろということなのかもしれない。

 

見知った仲で病症の話をすると、ミュンヒハウゼン症候群を疑われるので避けた方がいい。知人(友人とは言えない)が恐らくそれで、今度は癌を罹っていた。嘘ではないのかもしれないけど。そうでなくとも人を簡単に裏切ってしまう人柄だったりもするので、誰も本当には相手にしていない。

誰も相手をしてくれないので、どんどん大きな病に罹っていってしまうのだろう。服薬は本当にしているようなので、副作用で身体を痛めている点はかわいそうに思う。

でも止まりたくないのだから止められない。

ただ、かわいそうだなと思いつつ交友を続けている人達には、本当に愛がないなと思う。叱って正してやろうという愛もなければ、認めてあげることもしない。大変都合がよい。

 

 

 

 

才能の下描き

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気づけば6月半ばで、そろそろ描いたものの展示を考えなければいけない時期なのか。

展示会なんて言葉で締め切られるとうんざりしてしまう…。

そんな気持ちと相対して、裏道の川に住むようになった鯉などをのんきに見に行ったりしていた。これが物凄く立派な鯉で、誰かが放流した可能性は高い。その鯉を、農道を通る爺さんが狙っていたり、飛来したサギが狙っていたりする。

そのうわさを聞き付けたのか、普段は見ない通行者が増えたように思う。通行者が増えたことで雑草が踏みつけられ、さらに勢いを増しているように見えて、一連の流れは神話の始まりのようで面白かった。

 

長いこと嫌がっていた、人物というモチーフを真っ向から描こうという気合が入ってきた。自分の出力の稚拙さに気づいて、一旦はやめていたこと。

綺麗な顔とかエロいものを描くのは簡単だ、一番強い出力だから。そして多くの人が引いたであろう出来合いのような線や色を塗るのはもっと簡単で、才能がなくたって誰だってできる。一番大きく聞こえる音を歌うのは簡単だろう。

その出力元自体は間違っていないのかもしれないが、自分の人生から出力して、微妙な違いのある線に変えられるのが才能じゃないかと思っている。だから、良い人生送れば才能になるんだよ。多分。

 

 

それで、人の良い表情とかって、良い顔したなと思う実際の人の顔を描いた方がいいのかなとか考える。
でもその人の顔を作った人生全てに責任を負えるわけじゃないしな、とか思ったり。
で、最終的に自分の良い時の顔になったりで...実際あるものを描く人って楽で良いよなとか思ってしまう。
でも責任取れないよな、って。

今日はほとんど頭のなか語で、文章にならない。商業に振って文章を書いている人はお疲れ様。毎日義務的に出しすぎてると、栄養も感度も動機も薄まるから、気を付けてほしい。

 

 

檸檬

夢からそのまま引っ張ってきた絵。まだ序盤。


いつかの食事を模した夢で、床は水浸し。

向かい合って座っていた。
いつものように罵詈雑言を浴びせられるのと、目の前で悪いことをやりだす。
しかし、ああ悪い音が耳に入ってくるなという程度だった。

完全に相手を理解したことを、テーブルにあった果物をかじった苦さから感じた。
ろくに食べる物もないので、もういいな。と、その場から立ち去る際に強い言葉で「自分はもう幸せなので」と伝えた。
何とも言えない顔になって後を付いてきたが、気にせず外に出た。

知らない海町だったが、駅がある方向など、不思議と帰る道はわかった。いつのまにか両手に大きなレモンを抱いていて、誇らしい感じがした。

過呼吸で起きることもなく、爽やかな夢だった。

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