買い猫は宝石

何十万も払って買った猫、中古車を撫でているような気持ちにならないだろうかと思う。

(うちの猫は新品の外車でも釣り合わないが)

少なくとも緊張感はある、人の猫だと特に...。

猫そのものはなんでもない、代金のぶん特別丈夫なわけでも健康なわけでもなくて、どの形かに金がかかるわけだ。すごくいい成形の猫。

つきつめて可哀想であることが可愛さの根源だけど、その度合いには命が関わっているので、えぐみがすごい。

全て飲み込み、ひと息に可愛い!と言えたらね。

 

 

傾向

自閉的な傾向が強く、長期的な記憶が優位になりがち。うつ感情が併発しやすいのはこのためなのだろう。

だんだん自分をわかってきたが、緊張が全ての鍵を握っている。

内耳が緊張を捉えた状態では、短期的な記憶を引き出すのはむずかしい。

多分人よりもその部分が緊張しやすいのだろうと思う。

その部分が特には問題がない人でも、過度に緊張した状態ではうまく体を働かせることができない。

 

 

 

 

 

お医者さん達とそのなかよしが、発達障害という言葉を新たなブームにしたけれど、愛着障害など発育に問題があった場合を誰も気にしていない。

"自分を見直したくない、元来の性質だからしょうがない"という意識がもともと強い人の免罪符になっているのは事実。

だからテストを受けてもいないのに、発達障害を自称したり押し付けたりするのだと思う。

 

人類みな精神疾患なので、そんなことしなくてもいい。

まさに自分こそがと常識こいている人は、人に許されて生きていることを自覚していないだけです。

毒が回り切らない

久々に人に殺される時の臨場感があって、とにかく静かにしていた。家の中はたいてい殺意に満ち満ちていて、私が寝ている下で、命のやりとりが行われていたことがよくあった。

師のところへ行って、呼吸と書き出しで嫌な記憶は出ていっても、支配されていた感覚はしみついていて離れていかないように思う。

ああ今度は殺されるかもしれないが、逃げたところで、といつも覚悟があった。包丁が肌には刺さりかけていたから、どうせやらないだろうと思ってもいられなかった。

人の意思は少しの力でどうにでもなる。

 

小林秀雄さんの著書のなかで、昭和の貧しい農村で、食いぶちを減らすために子どもをつぶすことがあったと。そこには至極当然のような雰囲気があって、子どもは子どもで覚悟があって、自分から死んでいったそうだ。

生い立ちは家の数ほどあって、そういうものだと思っていたほうが平均が割り出されず、思い悩まない。正しさの話ではない。

 

家族の苦しみをなぐさめるために殺されることもある。本当のなぐさめではないけれど、小さい頃から苦しんできた顔を知っているから、仕方がないという想いが強い。どうにもできずに、かわいそうだからだ。

愛されなかった心は人を人に執着させ、与えられない場合には、自分を殺すか相手を殺すかでしか人から離れられないようだ。

 

 

 

 

 

 

インスタ

友人の多くは、毎日色んなところに行く人に嫉妬をするらしい。私は旅行や外出に興味が傾かないので、皆が出向く写真を見るのが楽しみ。

(御朱印帳のようなものかな、と思っている)

 

しかし人生の進捗の報告を、良いことばかりにしなくてもいいんじゃないかなとは感じた。

躁転したような様子でキャプションを書き連ねる人もいるけど、鬱屈として葛藤のある感情のほうが美しくあったりもするから。

 

バーンと明るい人から頂ける活力は、身に浸透しないことがほとんどで、ほの暗くて優しい明るさを放つ人のほうが心には届きやすい。

おもに人の暗がりの部分を照らすからではないかな、と思う。

 

 

中休みの多い梅雨

ここまで生きられたのだから、どんどん行こうというわけにもいかん。

例の如く足踏みをしたりもまた良いだろうと、啄木のように生きられればなぁと思う。

一度は死んだ身だけれど、あの決死のような気持ちとは違った希望的な死へのあこがれは、死ぬまで持ち続けるのだろう。

同じように生き残った人に会ったことはまだなく、会えたら聞いてみたい。

 

 

微妙な作家魂を競わせるだけの人は多く、我先に我の方がとむなしい。競っているということ自体が、美術ではない証拠です。

社会還元のような発想はなく、ひどい言葉で言えば、矮小な自己実現を終えた商品。

それはそれで、私が他人の儲け方に口を出すべきではなかった。

 

しかし、矮小さを雲隠れさせて美術風なことをしようという風潮はさすがに冒涜だと思う。

自分の手柄にすることが、そんなに大事なことか。お前ごとき、自分ごとき。

 

 

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