珍しくラジオを聴きながらネタ書き。
私の好きなものや好きなこと、友人を真っ向から貶める催しの何千回目が始まりそうだったので逃げた。
何か具合が悪くなりそうになると人を支配したがる悪癖は、人格というより発作だと思うから、耳に入れないことにした。
好きなものは誰にも見つからず大事に育てることもできる。
遠隔のやり方を教えてもらった。
顔を考えればいいのかイメージがしづらいと言うと、タオルが布団か何かを丸めてその人の治したい部分を模するとやりやすいとのこと。
やってみたけれど、瞑想の時とは違ってかなりの集中力がいる。
それでいて身体に力が入るとうまくいかないので、集中しつつ身体を緩めるというのが呼吸の常でもある。
12年でできるものを7年程度でやろうとしているのだから、そう簡単ではなさそう。
しかし昨晩は何だかこの人にやらなくちゃというので、0時をまわってから小1時間その人の身体に入ってみた。やっているうちに左の背中から胃の部分がチクチク痛くなってきて、姿勢を正しても治るものではなかった。
ああ自分のじゃないんだと思って、ちょうどその人が向かい合った状態の胃の部分に集中して呼吸を送り続けた。しばらくしたらチクチクが消えたので、抱っこしてあげた。
辛い環境にいるのだと思う。そして酒か何かで胃粘膜や腸壁がただれていて、そうすると修復にビタミンBが常に使われ続けるために、ほかにも症状が出ているはず...
何か本当に欲しいものが得られないままに、または昔に失ったものが大きすぎて、それらのゴミを引きずっているみたい。
痛みも思いもいったん自分を通るので、少し辛かったり涙も出る。
もしかしてあの白熊ってこの人なのかと思ったけれど。私はおそらく充電ケーブルのようなもので、主張してはいけないと思う。
師匠が繰り返し言うけれど、"私"がやれるとかやってやるとか、とにかく私を捨ててやること。
人が治るとどうしても、やったー治したぞ!と勘違いするけど、自分の儲けにはしてはいけないことだから。
誰のことも平らに見てあげて、ただ楽にしてあげようと思う。どうか私に気が付かないといい。
とんでもなく大きな金色の白熊に抱きしめられ、「もうすぐ40年経ってしまう、かなり忙しいけど、必ず待っててね」と言われた。
当たり前のことだが、白熊は冷んやりするわけじゃないんだなと思った。
起きてもふんわりとした感覚が残る夢だった。
金色なのにどうしてか白熊と思ったんだろう。
私はその熊がどこか寒い環境にいると感じていた。強いけど寒いところに1匹でいる。
追記
そんななか、春待ちしていたクマが出てきてしまったらしい。
話に一貫性もあって、ちゃんと説明になっているという人と、感情的で飛躍した話をする人。
こうみればどちらが信用に足るかはわかりやすいものなのに、前者がホームレスで後者が会社員だった場合には、判断がつかなくなることが恥ずかしく思う。
児童買春する市役所職員、横領する教職員、新婚で不倫する人、家庭を作って壊す人。
社会的状況が自分を補完してくれているという自信はどこからくるのだろうか。頭を隠すと余計に見える尻もある...
証券会社からヘッドハンティングされて配属された上司。凄い人かなぁと思っていたが、飲み会の席で理性が解けていくと、仕事以外はろくでもない男のようだった。(そういう人はわりと仕事でもその部分が出ている気がする)
いい服を着て完璧な敬語を使えているにも関わらず、心は産まれた時に近いものを抱えていた。どうして誰も僕を愛してくれない!という思い。そして夜な夜な他人に機嫌を取ってもらう。
まだ誰にも十分に与えてもらったことがないから執着があるんだろう。
一見では素晴らしい人にも見えるのだけれど、何にも素晴らしくはなかった。
あんた尻だけじゃなく頭も出した方がいいよと思う。こんなしょうもない尻を出している奴はどんな奴か世間に知らしめるために、頭も堂々と出したらいい。
そしたら誰か頭用のパンツを買ってくれる。そうして心が育つのかもしれない。
ああこの人は見てくればかりで中身は赤ん坊だと思ったら、頭にパンツだな...という連想が出来てしまった。
故人からの手紙を失くしてしまったという方、その故人の方がそうしてほしかったように見えて感じた。
それを持っていることで進めないでいるのがわかっていたから、失くさせた。しかも自分で失くしたら自分を責めるから、誰かにやらせたんだなと。
人を亡くすと、どこかで幸せになってはいけないという思いが残ってしまって、故人も自分も進めなくなる。
悲しみについての柳田さんらの本にもあったが、どこまでもどこまでも幸せになっていい、誰に遠慮することなく。という言葉が思い出された。
本当にいい仕事をしたい、いい仕事をしないと駄目だと思う。それしか考えていない、草を食っても良い。
描きたいものを描くのは素人の人なら良いと思った。プロは違う。画力1番で賞とか、奇抜で賞をもらって喜んでいるのでは。どうにか自分の命をふりしぼって出た、遺書になるようなものを毎回作らないと駄目だ。
でも素人のまま楽しんで、人生の余暇で生き死にしたい人を巻き込むのもまた違うと思う。快楽で作る人の邪魔はできない。何か辛いことの逃避であるかもしれないし...。
でもやっぱり痛い思いをして産むものや、損なわれたからこそ産まれたものの美しさには敵わない。
たとえば自然をそのまま作ったとしても、人が描いたものは人が見たものにしかならず、人為的なものにしかならない。"自然が美しい"と思っても、"自然の美しさ"なんてものは存在しない。たいていは、自然が美しいと思うナルシシズムが表れるだけになってしまう。
モチーフ同士の関係性、背景を思いつくまで、あまり追い込まなくても出てくるようになった。夜寝る時、神頼みで何かないですかねー?と聞くとわりかしに何か出てくれる。(高木正勝さんもそうらしい)ドラえもんのよう。
キャンディーズを描いていて、写真に撮られた人というのは何だろうなと考えたが、やはり死骸ではないかと。人のある時をおさめて進まないもの。
写真を撮られると死ぬというような感覚は、的を得ていると思った。
何年ぶりか徹夜で海外ドラマをこなして、内臓から文句が来ている...。
ゾンビものに近い韓国のホラーで、シーズン2を見た。ゾンビ映画は社会的抑圧の解放や、とりわけ社会的弱者の視点を描く役割をしている。特に韓国のゾンビものはそれが顕著で面白い。
面白くて見てしまうが、共感が強いためにグロテスクはものすごく苦手。そして不意をついて迫る脅威のシーンが繰り返されるので、自分の不意に対して脅威が関連付けられてしまう。
こうして暗闇怖い期間が始まる。
当然悪夢をみたが、玄関に有症者を迎えてしまって、悟られないように追い返すシーンだった。怖いと思いつつ、あれこのシーンはシーズン1のものだ...と気が付いて起きた。
心理の深層でもシーズン2がつまらなかったと感じているのかと、なんだか納得してしまった。だがまだしばらく暗闇は怖い。