悲しみや怨みについて

 

家族にも打ちのめされることがある。人にとって、根深い問題になって一生つきまとうことが多い。

私も暴力と支配をうけて育ったが、その人をまったくの毒や害ということはできなかった。

その人の小さい頃を思い出すと可愛いと思ったし、苦しみを共有して、違うことで苦しんでいることも知っていた。

表面上はなかなか素直に私を可愛がれないが、可愛いと思われていることはわかっていた。何より私を叩くとき、その人がその人自身を責めていることを知っていた。

あらゆることで自分を責めて逃げ道がなくなった、どうしようもなかった人だ。

そんな人間を責めることはできない。

人を叩く人はまず第一に、自分を死ぬほど責めた後ろがある。

 

人を怨むことが続かない私と何が違うのか考えたけれど、ある程度のところで自分を許せるか・手放せるかどうかなのかもしれない。

ヒトラーは、被虐された弱い自分を許せなかった。

 

 

 

家族といえば、家族間での悲しみを教えられることもある。

被虐の関係や裏切りの関係、そういう個人間の特に夫婦間の関係を子供に悟らせてしまうのは、人間不信の始まりだ。

 

例えば母親がどんなに傷つき、父親がどんなに裏切りを働いても、どちらも心に入れない。

子どもは公平な他人の立場なのであって、どちらのものでもなくどちらも尊重してよい。

またどちらも気にしなくてよい。

あなたたち本当に大変ですね、でよい。

 

血が繋がっていようと弱さの違う他人。

もしかしたら自分より弱い他人かも。

親だからこうしてほしいというのを求める気持ちは依存であって、できないものはできない。

ないものは出てこない。

でも、手に入らなかった愛情などは自分自身で満たしていくことができる。

 

ps

自分が不幸な思いをしたという結果にこだわらず、それは更新していくことができる。

どこまでもどこまでも新しい幸せを感じていってよい。

 

 

 

 

 

 

 

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