毒が回り切らない

久々に人に殺される時の臨場感があって、とにかく静かにしていた。家の中はたいてい殺意に満ち満ちていて、私が寝ている下で、命のやりとりが行われていたことがよくあった。

師のところへ行って、呼吸と書き出しで嫌な記憶は出ていっても、支配されていた感覚はしみついていて離れていかないように思う。

ああ今度は殺されるかもしれないが、逃げたところで、といつも覚悟があった。包丁が肌には刺さりかけていたから、どうせやらないだろうと思ってもいられなかった。

人の意思は少しの力でどうにでもなる。

 

小林秀雄さんの著書のなかで、昭和の貧しい農村で、食いぶちを減らすために子どもをつぶすことがあったと。そこには至極当然のような雰囲気があって、子どもは子どもで覚悟があって、自分から死んでいったそうだ。

生い立ちは家の数ほどあって、そういうものだと思っていたほうが平均が割り出されず、思い悩まない。正しさの話ではない。

 

家族の苦しみをなぐさめるために殺されることもある。本当のなぐさめではないけれど、小さい頃から苦しんできた顔を知っているから、仕方がないという想いが強い。どうにもできずに、かわいそうだからだ。

愛されなかった心は人を人に執着させ、与えられない場合には、自分を殺すか相手を殺すかでしか人から離れられないようだ。

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ