やまゆりでの事件に

youtubeの感想欄の傾向は、ナチズムのはしりの会合のようだった。100万の動画再生のなかで、よりすぐりのサディストだけが感想を残していると考えるべきだろう。

重度障害者に対する死生観ばかりの感想のみであり、それも自分の立場や人格を弁護しながらの卑猥さ。

自分が障害者当事者だからわかる、家族が障害者だからわかるとその場に表明するということは、自分であったら間違いなく殺すと言っているのと同じである。

殺したくもなるが殺さない理由については感想を述べない時点で、事が起きずとも殺す側を評価している人間であることを認めたほうがいいと思う。

世の中が変わるのを待って、信念もなくすぐに殺す側になるだろう。

 

仮に"重度障害者が生きる権利がない"として、なぜそれをあえて貴様ごときが殺すのか?という問題には殺人者本人も答えられていない。

権利によって生きているという考えのつまるところは、生きることに許可不許可を感じている貴様自身がいるということ。

自分自身の弱さを他人を用いて解消しなければならなかった骨組みを持っている。

ヒトラーもその1人で、自分が虐待からも何からも守られなかった経験を、今度は自分がその惨めさを味合わせる立場に成り代わることで克服しようとした。

"意思疎通ができない"というのも"意思疎通ができる"というのも思い込みであり、信じるという営みのみによってコミニュケーションは成立している。


自分には優位性があるという思い込みを相対的に勃たせるためだけに、他人で表現しようとするのが殺人者の基礎ではないか。

 

ps

殺人者のいう"意思疎通がとれる"というのは、"自分の意思に応えてくれる"に訂正されるべきである。もしくは"私と意思疎通のとれる"にするべきだ。

意思疎通がとれるという評価において、なぜか自分の評価の方だけを高く見なしていることに幼児的万能感がある。

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