ミツホさんの奉公

蜜柑を描くという公募があった時、お師匠の話を聞いた。

昭和初期、兄弟姉妹は下に何人もいた。

小学生を卒業したと同時に父さんがやってきて、「おめぇ酒代稼いでこい」と言ったそうだ。

「兄さんが馬を引いてきて、米俵をくっつけているから何でだろうと思ったが、それは私が食う1年分の米だったんだよ」と笑っていた。

 

雇い人は意地悪で「ろくに働けないわりに飯は人一倍食う」と悪態つかれてばかりいた。

人に何を言われても、生きていくためには気にしないという術がこの頃身についたそうだ。

十分に眠るところなどなく、小屋の中での雑魚寝。それでも一日中働いて疲れていたから、きっちり朝まで眠った。

それでも用を使わされて街へ出たときは、ずるをして数円のうどんを食べて、こっそりと帰ってきたそうだ。

なんだかうまそうな匂いがするなと勘づかれてヒヤヒヤした、とまた笑っていた。

 

15歳になったころ、年貢が納められず家の田んぼを取られてしまうという状況になり、自分が何とかせねばと母親と一緒に地主に直談判に行った。

地主はたいそう怖いが筋の通った人で、「お前ら親の不始末のために、この子が働くって言ってるんだ。だからこの子の意思をしっかり見ておけよ」と、彼女が3年奉公する代わりに田んぼを取られずに済んだそうだ。

 

この時の光景が蜜柑の絵と重なったようで、これは私だねと言っていた。

 

そのあとも山形から秋田へ奉公に行き、嫁に貰われて今の地に移った。

 

 

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