病気に詰まっているもの、とメモ

思えばほとんど呼吸をやれていなかった。今日はいいか、今日もいいかとさぼっていたが、今回のようにならなければ学ばなかった。

なぜか腰椎の5番の靭帯が損傷していて、座りも立ちもできなくなって初めて色々思うところがあった。

 

何も出来なくなって泣きついたが、呼吸で気を通してもらっても益々痛かった。人生で1番痛かった。(だって筋組織的な何かが分断してるってことでしょ)

気では治らないものもある。

結局炎症は治してもらったが、整体の名手にテーピングをしてもらって、ようやくまずまず動けるようになった。

それまで患部までで止まってしまっていた呼吸の気も、ちゃんと自分の体に聞いて、今日は足の裏まで通るように。

 

痛いところを緩めていったら、悲しみのようなものが詰まっていて、緩めるだけ涙になって出ていった。

走馬灯のように、これだという出来事が思い出されたのが、自分の女性の悲しみだったように思う。

恋人が頼りないので、いよいよ1人で頑張らなくてはと力んでいた節もあり、諦めたような清々しいような悲しみだった。この人のためには受け入れようと思っていたことが、体を壊していた。

誰かに、無理をしないでくださいと言ってもらう度、無理をしないことはできないんじゃないかと思っていた。

 

誰が頼りなくても関係がなくなるように、より強い精神を身につけるつもりでいたが、無理をする、無理になるというのは弱い証拠。

強いというのは、跳ね返したり、打ちのめす「力」のことではなくて、その「力」を無力化することだと感じた。誰かや自分の固まった気を、自分の中へ入れて無力化してしまうこと。だから無理がない。力を入れる必要がないから、体も壊れることがない。

 

 

呼吸を通しているあいだ、これを絵に描くといいという構図が上から降りてきたり。ふと、宗教をやっている人に問いたくなった。信じるということと、言いなりになることの違いは何だと思うか。

私も神様というのを感じる身だが、宗教として神を信仰している人は、じつは、信じられないから言いなりになっているのではないか。

それは自分の外に神がいるという感覚で、自分とはかけ離れた存在のように感じているからジレンマが生まれ、ずっとホームシックのような状態なのでは...と。

 

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