正直な猫のこと

猫を家に迎えてから6年半、人さまの家の猫や画像の猫に反応することが増え、とうとう猫の一部が映像にでできた程度で反応してしまうようになった。

猫足バスタブの脚の部分が本物の猫の足を模していて、自分がにこにこしていることに気がついた...

 

私が自殺をした年に迎えた猫をアパートに残して来たのが心残りで、忍び込んで再び迎えに行った。ほとんど自分の子だと思っていたし、置いていくなど本当に考えられなかったけれど、この時のことは謝りようがない。

迎えに行った時は部屋の中でひとり、つちのこみたいに大きくなっていた。

朝7時に出て酷いと次の日の朝まで出社している人のもとで置き餌を食べ、足りない時は髪の毛を食べていたようだった。

おそらく大量に置き餌していたが、子猫だったために配分がわからなかったのだろう。

今でも間食に髪の毛を探しているから、もういつでも食べられるんだと言い聞かせるが分かっていないと思う。

謝りようがないが、アパートのホワイトボードに、猫に吹き出しをつけて"バイバーイ"と書き置きして発った時は気持ちが良かった。

 

 

人さまの猫も大なり小なり家の子になっていった歴史があると想像して、この手にも脚にも何か愛情かかけられているのだと感じて、カワイイと思ってしまう。

それを通して動物が、人間が、愛される可能性があるものが全てカワイイと思えてしまう。

愛される可能性のあるものが愛されていないと、カワイソウになるのかも。ヴィーガンの人達を尊重してあげたいと思うのも、自己愛が砕かれた形がカワイソウに繋がっているので、言っていることが行き過ぎているとかで、責めていいものではないと感じる。

自己の愛着を通して自己は回復ができるのです。

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