身体が生きているのと、社会的に生きているというのと。
身体は安全というサインを他人と相互に送り合うことで健康を保っているのだったら、やっぱり社会的にうまくいかないことは不健康や死に繋がる。
マインドフルネスや瞑想ではたしかに、身体だけの生を実感することで、一方の生については忘れられる。
今朝見たヘッセの幸福論についてのコラムでも、身体だけの生についてが幸福の本質だと書かれていた。
私もそう思いたい。しかし人間は必ず社会を作る。社会的な生とは、"他人と関わる自分の可能性"ではないか。
この考えが最初、魚肉ソーセージのパックを剥くようなイメージで頭に現れた。
朝見たことをまた夜眠る前に思い返してみたら、朝にはなかった発想があったのが面白い。